「住み慣れた家でくらす」

 つどい場さくらちゃん主催の講演会のテーマは「住み慣れた家でくらす」である。
 和田行男さんの「大逆転の痴呆ケア」を初めて聞いたとき「なんてよくわかる説明だろう?」と思った。
 去年の秋、ばあちゃんが週単位でどんどん悪くなってきたころ、再度、和田さんが来てくれた。でも「痴呆症とは何ですか?」との和田さんの問いに介護職の若者が「一度獲得した能力が、脳の病変により失われてきた」と答えたとき、私は「何でも、痴呆症の原因をアルツハイマー病と脳血管性に求めるのは間違いじゃないか?金子満雄さんは『生活習慣病』だと言っている。80歳を過ぎたら、ぼけても普通、ぼけなくても普通じゃないか?長生きしたからぼけたのだ」と言うと、しっかり無視された。
 そして「ぼけたばあさん」と「ばあさんがぼけた」の問題にすりかえられた。「おヨネさんがぼけた」では、おヨネさんが生き続けてきた延長線上で「ばあさん」になり、ぼけがでてきたのだそうだ。「ぼけたおヨネさん」は支援する側の者が、一方的・画一的に痴呆という状態をとらえて「特別な人」にしてしまう。すべてを失っていないにもかかわらず、、人が生きる世界から遠くに追いやって介護の世界に閉じ込め、「痴呆老人への痴呆介護の質」を語り合っている。(「大逆転の痴呆ケア」69ページ)
 よくわからん。どっちだって同じ、という気もする。
 だからどうだって言うの?私は「年とったら、だれでもぼける。80才過ぎたら、ぼけても普通」と言っているの。
 そして「グループホームでのくらし」でしょう。「自分のことは自分でする」
 ばあちゃんは家にいると、することがない。「最後まで自分のことは自分でする」と和田さんは言うでしょう。それは無理。だって「自分のことができない」のが「認知症」なんだもの。「自分のことがわからない」のが認知症。もちろん「他人のことはわかる」から、批評をして憎たらしいし、おべんちゃらを言えるから気持ち悪い。でも、自分のことはまるっきし! だめなのだ。
 そして、講演のあと「質問」のときに、まりもちゃんが「グループホームでいきいき暮らすばあさんずの話はわかりました。では、うちのじいちゃんが家にいて『何をしたらええのん?』と訊いたときに、どうすればいいのでしょう?」と尋ねたら、和田さんは「うーん!それは...家族には何も言いません」それでは、答えにならないって。
 ばあちゃんはいよいよわからなくなって、家にいればベッドにもぐって寝ているか、横向きに起きていて窓の外を通る人を見ている。畑には行きたがらない。行っても、ぼーっとしている。そのうち、草に目がいったかと思うと、小さな草だけ選って歩く。これでは「仕事」とは言えない。88歳で仕事をしなくてもよいが、では何をして暮らすと言うの?家事は嫌いだもの。そばについてやらせるのでは、じっとついていたら、ばあちゃんに何時間ついていないといけないか?
 「自分のことができないから」今までは、毎食の見守りだったのが、お風呂までになると...ばあちゃんのためにうちの中がまわっているのではない。