ゆうとぴあ通信10月号から「塀の中の障がい者」

 障がい者問題に関する書物で話題になっているものは大抵読んでいるのですが、昨年発刊された山本譲司著「累犯障害者」(新潮社)は見逃していました。この本の内容は、刑務所に入っている障がい者のことに視点を置いているので、多くの障がい者団体は、一般の人たちにあまり読んでほしくなかったため、紹介したり書評がなされなかったのかもしれません。しかし、この本は一度読み始めると止められなくなります。著者の文章の描写力がとても優れているので、これまで知られていなかった障がい者の世界にぐいぐいと引き込まれていくのです。なお、この本は山本氏の2冊目の本なのです。この前に、「獄窓記」(ポプラ社)を書いています。そしてその本が「第3回新潮ドキュメント賞」を受賞しているのです。「累犯障害者」を本当に理解するためには、前著も読まなければなりませんでした。
 実は私は山本譲司という人をあまり知りませんでした。演歌歌手で同じ名前の人がいますが、一字が違います。彼は、1962年北海道生まれ、佐賀県育ちです。早稲田大学教育学部を卒業しました。卒業後、菅直人代議士が秘書を求めている新聞記事を見つけて応募します。たくさんの志願者の中からただ一人採用され、最初は菅氏の自動車の運転手から仕事が始まりました。1989年、リクルート事件があり、政界に対する国民の不信感が渦巻いている最中、東京都議会議員選挙がありました。彼の住む立川市選挙区は自民党の指定席になっていたのですが、「何としても無風選挙区にだけはしたくない」という思いから、自ら立候補することにしました。菅氏からは、「これじゃー、玉砕覚悟のドン・キホーテじゃないか」と言われたのですが、結果は当選です。都議会史上最年少の26歳でした。都議会議員を2期務めた後、直前に結成された民主党の公認候補として衆議院選挙に立候補して当選します。当時、菅氏は厚生大臣を務めており、山本氏は元菅直人代議士秘書という肩書きが追い風になったのです。この代議士生活も2期続きます。
 ところが、ここに大きな落とし穴がありました。2期目の選挙のときに、自らの私設秘書が対立候補の応援に寝返ったのです。その時に、対立候補を有利にするための材料として、公然の秘密として多くの議員がやっていた政策秘書の名義借りのことを取り上げました。選挙には当選しましたが、秘書の名義借りの件はマスコミの知ることとなり、写真週刊誌フラッシュに掲載されてしまったのです。そして、間もなく東京地検特捜部から何度か事情聴取が行われ、逮捕という結末に至ります。彼は議員を辞職し、秘書に支払うべきであった給与の合計に利息をつけて全額返還したのですが、裁判では、懲役1年6カ月の実刑判決が出ました。関係者の大方の予想では、最悪のケースでも執行猶予がつくだろうと思われていたので、誰もが実刑という結果に驚きました。
 その時の心境について彼は書いています。
「私は、凝然として立ちつくしていた。裁判長の判決文の朗読は、淡々と続けられている。判決理由についての説明をしているようだ。私の耳に入ってくる裁判長の声は、もはや、言葉ではなく、単なる音に過ぎなかった。しかし、決して放心状態に陥っていたわけではない。不思議と、裁判長が下した量刑に対する不満は感じていない。それよりも、執行猶予を信じて疑わなかった自分自身の浅はかな了見を恥じた。私は、必死になって、頭の中の思考回路を切り替えようとしていた。執行猶予判決を前提としていた今後の人生設計を見直さなければならない」。
 彼の弁護士は、控訴するように勧めました。しかし、控訴の結果がどうなるかは誰にもわかりません。山本氏は、控訴するとなれば、いつ終わるとも分からない裁判にずっと時間を取られるだろうと思いました。そんなことならば、判決をそのまま受け入れて刑に服し、早く元の平和な暮らしに戻りたいと考えます。「たった一度の人生、刑務所生活を味わってみるのも悪くはない」と考えたのです。
 この頃、彼の妻は妊娠していました。裁判という過酷な毎日を送っていたので、彼は妻の体調を大変気遣っていました。しかし、妻は無事長男を出産することができたので、彼は少しは落ち着いた気分で入獄できたようです。本書には、それから出所するまでの433日間のことが、まるで読者が目の前で体験しているように感じられるほど生々しく記述されています。
 山本氏は、府中刑務所に入り、それからしばらくして、栃木県の福島県境に近いところにある黒羽(くろばね)刑務所に移送されます。称呼番号1715で、鼠色のジャンパー上下にゴムサンダルという囚人服に身を包んだ生活が始まりました。ところで、服役生活の中で彼が一番長く携わっていたのは、寮内工場の指導補助という仕事です。寮内工場とは、別名「刑務所の中の掃き溜め」と言われているところで、一般工場では働けない障がい者などを処遇しているところです。そこで、その人たちの世話をする仕事を命じられたのです。そして、その時の経験から生まれたのが、後の「累犯障害者」という本です。
 Uという囚人の部屋を掃除するように頼まれた時のことが、次のように書かれています。
 Uの容姿は、工場の中でも目立っていた。Uは、70歳を過ぎた老人で、その相貌はというと、右眼が左目と比べて極端に縮小で、唇は引っ張り上げられるように顔の右半分に歪んでいた。そして、涎と鼻水だけではなく、両目からも粘っこい白濁色の液体が溢れ出し、それが10センチぐらいの長さになり、顔面から垂れ下がっていた。Uの体には、エプロン代わりの新聞紙が巻きつけられていた。
 Uの部屋に入ると、鼻がひん曲がるほどの強烈な臭いが充満していた。畳や床の上には、糞尿だけではなく、嘔吐物までもがこびりついている。その光景を目にして、私は、しばらくの間、立ちすくんでしまった。何から手を付ければいいのかわからない。
 とりあえず、雑巾を手にとってみたが、雑巾にも排泄物が附着していた。私は、すっかり、たじろいでしまい、体が動かない。吐き気さえ催してきた。
「山本さん、助太刀に来ましたよ」
 不意に、指導補助のAが現れた。Aは、にっこりと笑い、私の手から雑巾をもぎ取った。
「このジジイ、相変わらず部屋の中を汚してやがんな。クソぐらい、ちゃんとトイレでやれよ。こらっ、わかったか。 えー、どうなんだ、このやろー、返事ぐらいしろ。ぼけた振りしてんじゃねぇーぞ」
 Aは、流しで雑巾をすすぎながら、部屋の片隅に身動きもせずに座っているUを叱り飛ばしている。
「私が全部やりますから、山本さんは、見てるだけでいいですよ」
 そう言うとAは自分の着衣が汚れるのもまったく気にせず、四つん這いになった。そして、手際よく、汚物を拭き取っていく。雑巾で取れない汚れは、自分の爪で擦り取っている。
「じいさん、しっかりしろよな。いったい、ここから出たら、あんた、どうすんだ。こんなんじゃ、すぐに死んじまうぞ」
 手を動かしながら、Aは、さかんにUに話しかけていた。
嫌な顔ひとつ見せずに、他人の排泄物を素手で処理しているAの姿は、私に心地好い感動を与えてくれた。ー中略ー
 私は、ただAの動きを傍観しているだけだ。障害のある同囚の役に立つことなら、何でもやってやろうと意気込んでいただけに、なんとも、不甲斐ない姿である。思ったり言ったりするのは、簡単なことだが、真実は、行動のみだ。私には、その行動が伴っていない。
 このようにして寮内工場の指導補助として鍛えられていった彼は、障がい者の本音を聞かされ、彼らを取り巻く社会の構造的な大きな問題に気付くようになります。次は、ある障がい者との会話の部分です。
「山本さんにはわかんないと思うけど、俺たち障害者は、世の中のどこにいたって、居心地はよくないんだ。ノーマライゼーションだとかバリアフリーだとか、よく言われるけど、現実はそれとは程遠いね。たとえ、バリアフリーの街になったって、障害者に対する周りの人間のバリア、まあ、言ってみりゃ差別ってことになるんだけど、それは、絶対に消えないな」
「だからって、また、刑務所に戻るようなことをする必要はないと思うな。あなたの場合、30代前半でまだまだ若いんだし、十分にやり直しはきくよ。これから、障害者の雇用政策もどんどん充実していくだろうしね」
「本当にそうかなー。山本さん、俺ね、いつも考えるんだけど、俺たち障害者は、生まれながらに罰を受けているようなもんだってね。だから、罰を受ける場所は、どこだっていいのさ。また刑務所の中で過ごしたっていいんだ」
「馬鹿なこと言うなよ。ここには、自由がないじゃないか」
「確かに、自由はない。でも、不自由もないよ。俺さ、これまでの人生の中で、刑務所が一番暮らしやすかったと思ってるんだ。誕生会やクリスマス会もあるし、バレンタインデーにはチョコレートももらえる。それに、黙ってたって、山本さんみたいな人たちが面倒を見てくれるしね。着替えも手伝ってくれるし、入浴の時は、体を洗ってくれて、タオルも絞ってくれる。こんな恵まれた生活は、生まれて以来、初めてだよ。ここは、俺たち障害者、いや、障害者だけじゃなくて、恵まれない人生を送ってきた人間にとっちゃー天国そのものだよ」
 服役中の経験を元にして、彼は「第二の人生は、福祉の道に携わっていこう」と考えていました。そしてその通り、現在は、東京都郊外にある知的障害者福祉施設の支援スタッフとして働いています。そのかたわら、「触法障害者」と呼ばれる罪を犯した障がい者たちの周辺を訪ね歩いたりしているのです。その経験から、「累犯障害者」という本ができました。この本には、障がい者が関係した有名な事件がたくさん取り上げられ、それぞれの事件において一体何が一番問題なのかを浮き彫りにしています。足で取材して書かれた内容の中に新聞等の報道では見えていなかったいろいろな事実があり愕然としてしまいました。
 法務省が毎年発行している「矯正統計年報」に、「新受刑者の知能指数」という項目があります。2004年の数字によると、新受刑者総数32,090名のうち7,172名(約22%)が知能指数69以下の受刑者です。測定不能者も1,687名いるので、合計すると、3割弱の受刑者が知的障害者だと考えられます。
 彼らが犯罪者になってしまう仕組みを彼はこう書いています。
 ここで誤解のないように記しておくが、知的障害者がその特質として犯罪を惹起しやすいのかというと、決してそうではない。知的障害者と犯罪動因との医学的因果関係は一切ない。それどころか、ほとんどの知的障害者は規則や習慣に極めて従順であり、他人との争いごとを好まないのが特徴だ。
 ただ、善悪の判断が定かでないため、たまたま反社会的な行動を起こし検挙された場合も、警察の取調べや法廷において、自分を守る言葉を口述することができない。反省の言葉も出ない。したがって、司法の場での心証は至って悪く、それが酌量に対するインセンティブになっている。反省なき人間と見なされ、実刑判決を受ける可能性が高くなるのだ。そして一度刑務所の中に入ると、福祉との関係が遠退き、あとは悪循環となってしまうケースが多い。
「矯正統計年報」によると、知的障害のある受刑者の7割以上が刑務所への再入所者だという数字も出ている。そのうち、福田容疑者(下関駅放火事件)と同じように10回以上服役している者が約2割を占める。服役10回となると、完全に福祉との関係は切れてしまうだろう。
 出所後、彼は「獄窓記」を読んだという法務省職員の依頼を受けて、法務省幹部職員及び全国の行刑施設の施設長が参集した会で講演をしています。それに、参議院法務委員会に招かれて、参考人として話しました。その彼の主張が参考にされたのかどうかは定かではありませんが、2005年5月、監獄法を全面的に改正した「受刑者処遇法」が全会一致で成立しました。
 刑務所に関する最近の動きで、彼が注目しているのは、PFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)方式の刑務所です。要するに半官半民の刑務所のことであり、多くの民間人が運営に加わることになります。そのうち、2008年10月に島根県に開設予定の刑務所は画期的です。そこでは、精神障害者知的障害者身体障害者専用の収容ユニットが設けられます。そして、受刑者は、刑務作業をするのではなく、福祉的スキルを持った専門家による生活訓練を受けるのです。
 彼はその後も、福祉関係者や弁護士グループ、厚生労働省法務省の職員らと、私的勉強会「触法・虞犯障害者の法的整備のあり方検討会」を発足させました。翌年、この会は、「虞犯・触法等の障害者の地域生活支援に関する研究」をするための、厚生労働省の正式な研究班となりました。そして、実際に福祉施設が障がいのある受刑者を受け入れる「モデル事業」が始まります。これまでには行われていなかった、社会福祉法人による更生保護事業が始まろうとしているのです。この研究班では、さらに触法障害者の社会における自立支援策や再犯防止策についての立法も目指しています。
 知的障害者の起こした刑事事件の弁護活動を専門的に行なっている弁護士・副島洋明さんが、出所した彼に言いました。「山本さん、よくぞ服役してくれました。心から感謝します。『獄窓記』のおかげで、これまで全く伝えられることがなかった、刑務所内での障害者の処遇を知ることができました」。私も同感です。