「ゆうとぴあ通信」から転載します。

 条例ひとつで これが現実
     〜障害者差別禁止法の行方〜

 福祉の世界で話題になっている本があります。野沢和弘著「条例のある街」(ぶどう社)です。著者の野沢氏は、全日本育成会の人権に関する委員会の代表者で、機関誌「手をつなぐ」に何度も記事を書いています。また、本人向けの新聞「ステージ」の編集の援助をしていることでも知られています。彼の本業は新聞記者です。毎日新聞東京本社社会部で重要な仕事をしています。
 野沢氏がこれまでにやってきた仕事は、彼の長男に重い障がいがあることと大きな関係があります。このことについて、本書の「はじめに」ではこう書いています。

□□ 長男に重度の障害があることがわかったのは、まだ地方で新聞記者をしていたころのことだ。東京本社への転勤の話もあったが、いつも避けていた。問題意識と取材テーマさえあれば、どこにいても誰にも負けない仕事ができると信じていた。・・・・「君の想像が及ばないような記者がいる」という上司の言葉に引き寄せられて、東京本社に異動した。・・・・若者の引きこもり、いじめ、薬害エイズ、障害者虐待などの現場を歩き、多くの人々に会った。・・・・記事を書くことを通して、社会の意識を変え、制度を変え、新たな法律ができる、ということにも多少は貢献できたと思う。

 さて、本書は、日本ではじめて千葉県が作った「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」、いわゆる障害者差別禁止法が成立するまでの過程を詳細に綴った本です。事実を元にした内容ですが、起承転結があって、まるで小説を読んでいるような感じがしました。この本の趣旨について、彼は次のように書いています。

□□ この本は、日本で初めて障害者への差別をなくす条例をつくろうとした人々の物語である。私や条例をつくるための研究会のメンバーだけでなく、数百人、数千人の人々がかかわってつくられた。その誰もが主人公であり、誰ひとりを欠いても、この物語は完成しなかっただろう。この条例は障害者のためのものだが、決して障害者のためだけの条例ではない。同時代に生きる人々がそれぞれの違いを認め合い、多様性を楽しむのが、これからの成熟社会のあり方だと私は思う。その先駆けとなるべき条例をつくろうと、障害者や家族が立ち上がったのである。その歴史的な意味を多くの人に知ってほしいと願って書いた。水面下の出来事もできるかぎり再現した。そのすべてが事実に基づいている。

 野沢氏は、あるシンポジウムの打ち上げのとき、司会者であった大熊由紀子さんから声をかけられました。大熊さんは朝日新聞の元論説委員で、医療や福祉について鋭い論陣を張っていた人です。彼女は、その頃千葉県知事に当選した堂本暁子さんと協力して千葉県の福祉を変えようとしていました。野沢氏が千葉県に住んでいることを知って、彼女はこの活動を推進する仲間にならないかと誘ったのです。ところで、堂本暁子さんのことですが、若いころTBSでベビーホテル精神障害者の問題を報道してきたジャーナリストです。参議院議員となってからは環境問題や女性問題に取り組み、DV防止法の成立などに貢献したことで知られています。
 では、千葉県の福祉の何を変えようとしていたのでしょうか。千葉県は保守的なところで、県議会は自民党が7割を占めています。福祉に関して言えば、入所施設は多いものの、グループホームやホームヘルプなど地域福祉の指標になる住居や制度は、人口比では最も少ない県の一つです。この千葉県で堂本知事は、「健康福祉千葉方式」を提言しました。すなわち、?子ども、障害者、高齢者という縦割り行政をやめて、各分野横断的な福祉を目指す、?政策立案段階から官と民が協同で取り組む、というものです。
 このような方針で「千葉県障害者計画」が作られるのですが、官と民が協同で作るため、会議はいつも夜でした。その会議では、「どんな障害があっても、ありのままに、その人らしく地域で暮らせるような施策」について熱い議論が重ねられたのです。2004年7月にこの「障害者計画」が完成しました。そして、その中に「障害者の権利を守るため、国に障害者差別禁止法の制定をはたらきかけ、千葉県独自に同趣旨の条例の制定を検討する」という文言がありました。
 この報告書を元にして、知事は重点課題を4つ選びました。?グループホームの充実・強化、?一般企業などへの障害者の就職支援の強化、?子ども、お年寄り、障害者を対象に24時間365日対応できる相談機関の全県展開と地域のネットワークづくり、?千葉県独自の障害者差別をなくす条例づくり、です。このようにして、その年の秋から条例づくりの準備が始まりました。
 条例制定に向けて、「障害者差別をなくすための研究会」が作られ、委員は公募されました。ただし、座長は野沢氏、副座長は佐藤氏と高梨氏が務めました。佐藤氏は、法政大学法科大学院教授で、自閉症の次男と暮らしています。高梨氏は、視覚障害の当事者で、視覚障害者総合支援センターちば所長です。手当も交通費も出ないのに、この研究会の公募にはたくさんの応募があったそうです。
 この研究会の最初の仕事は、県民から差別事例を集めることでした。この差別事例は最終的に700件以上集まりました。それらが、教育、福祉、医療、労働、商品・サービスの提供、建物・公共交通機関、不動産取引、情報の提供などの分野に分けられ、29人の委員全員で分担して検討しました。
 研究会での議論は、次の段階として、社会に障害者のことを理解してもらうため、県内32カ所でのタウンミーティングに移っていきました。そのタウンミーティングの様子を一つだけ紹介します。例えば、車椅子用のトイレを作ろうとすると、「こんなに財政が厳しいのに、一部の人たちのためにそんなお金を使うのはもったいない」という声があがります。そのようなことを言う人にたいして、副座長の高梨さんが言います。

□□ 神様のいたずらで、障害者はどの時代でもどの町でも一定の割合で生まれる。しかし、神様のいたずらが過ぎて、この町で目の見えない人が多くなったらどうなるか。みなさん考えてください。私はこの町の市長選に立候補する。そしたら目が見えない人が多いので、私はたぶん当選するでしょう。そのとき、私は選挙公約をこうします。この町の財政も厳しいし、地球の環境にも配慮しなければいけないので、街の灯りをすべて撤去する。そうしたら、目の見える人たちがあわてて飛んでくるでしょう。「なんて公約をするんだ。夜危なくて通りを歩けやしないじゃないか」と。市長になった私はこう言います。「あなたたちの気持ちはわかるけれども、一部の人たちの意見ばかり聞くわけにはいきません。少しは一般市民のことも考えてください」。そう、視覚障害者である私たち一般市民にとっては、灯りなんてなんの必要もない。地球環境がこんな危機に瀕しているのに、なんで目の見える人はわかってくれないのだろう。

 こうして、2005年の師走、条例案ができました。そして2006年2月の県議会への提出となるのですが、ここからがドラマとなるのです。条例成立に賛成する3600人の呼びかけ人リストを持って、自民党千葉県連を訪ねると、政調会長は「条例案の内容はいい。しかし、知事のやり方が気に入らないと、みんな怒っている」と言うのです。自民党県連の中には、堂本知事のことを、「中央でばかりパフォーマンスをする」「すぐにマスコミを使う」と批判する声が根強くあるのです。野沢氏は、県議会の動きや、なぜ条例が必要なのか、研究会でどんな議論をしたのかなどについて、毎日ニュースレターを作って、メールで関係者に送信しました。
 しかし、この条例案にはさまざまな問題点が指摘され、もっと審議を尽くすべきだとして、継続審査扱いにされました。そこで、次の6月議会での成立に向けての新たな取り組みが始まります。このときから、自民党に対する対処の仕方が焦点になってきました。自民党内には条例案に賛成する議員は多いのですが、一部の強硬な反対派が自民党県連事務局と一緒になって堂本県政批判の空気をつくり、その中で条例反対の論陣を張っているというのです。また、「外側から空中戦をしかけるようなことをすると、自民党はますます結束して、条例をつぶそうという声が勢いを増す」のだと助言する人もいました。
 170席ある傍聴席にいっぱいの人が集まって見守った6月議会でしたが、「6月は見送ったほうがいい。このまま議会に出せば否決しかねない情勢だ。党内には反対論が燃えさかっている」という噂の通り、県議会の状況は最悪でした。そんな中で、知事は言いました。「どのような場面においても敵対関係になるのではなく、話し合いによって理解し合い解決していくというのがこの条例の趣旨であり、それに沿って考えれば、ここはいったん撤回することにして、引き続き議員のみなさまと十分な話し合いをしていくべきだと考えました。障害者、家族、障害関係者ら、実に多くの人々が、この条例が成立することを待っています。9月に再提出させていただきたいと思います」。次は、この時の野沢氏の心境です。

□□ 知事に手を振りながら、みんな悔しくて泣いていた。最後のひとりが傍聴席から去るまで、知事は議場にたったひとりで残り、私たちの背中を見つめていた。赤い目をして下を向き、傍聴席から出ていくと、研究会メンバーの森登美子さんがいた。いつも元気で議論を盛り上げてくれた人だ。「知事、これからもがんばってください!」と大きな声を出したのは、森さんだった。「悔しいけれど、これが現実ですね」と言う私を、森さんは笑って一喝した。「なに言っているんですか。これからが本番ですよ」。小さな体を揺らして、森さんは明るく言った。たしかに条例の灯は残った。しかし、撤回されて、条例案は議会から消えた。やはり負けたのかもしれないと思った。喪失感とともに、なにがしかの解放感がないわけでもなかった。きっと、終わったのだろう・・・・。心の中の空洞を見つめると、そう思わないわけにはいかなかった。

 6月議会で条例案は撤回されたが、水面下ではいろいろな動きがあったようです。自民党内では、条例案にはいいところもたくさんあるので、自分たちの考えも反映させた形で再提出してもらおうという動きが出てきました。そして、障害福祉課ではその他にも懸案が山積しているので、次の9月議会での採択が最後のチャンスだという背水の陣で取り組むことになったのです。この取り組みの最中に、野沢氏は自民党の幹事長に会いました。そのとき、幹事長はこんなことを言ったそうです。「こんな条例は千葉では無理なんだよ。自民党が7割占めているような議会で通るわけがない。全国で最初につくるなんていうけど、そんなことできるわけがない。東京とか大阪とか宮城とか、そういうところがつくって、そのあとで最後につくればいいじゃないか」「だけど、どうしても・・・・と言うからしょうがない。10月5日で決着させる。・・・・」。
 修正案の最終案は、2月議会に提出されたものと大きく違ったものになっていました。しかし、最初の案に盛り込まれていたことが全て削除されたり書き換えられたわけではありません。野沢氏は、このことについて次のように書いています。

□□ 私たちの思いがこもった前文や基本的理念は簡素になり、先進的な障害の定義は旧態依然としたものになってしまった。現場の相談員たちのコントロールタワーの機能を担う県の指定機関は「広域専門指導員」に、条例全体を運営する差別解消委員会は「障害のある人の相談に関する調整委員会」へと名前が変わった。悪質な差別事例は県知事が公表できることになっていたが、それも削られてしまった。しかし、最終案を何度も読み返してみると、私たちが大事に守ってきた条例の魂が条文のそこかしこに息づいていることもわかってきて、感慨深かった。失ってしまったものにだけ目を向けていると、まだしっかりと残っているもの、新たに生まれたものが見えなくなる。最終案では、県の責務が強調され、さらに「知事は、県の財政運営上可能な範囲内において、障害のある人に対する理解を広げ、差別をなくすための施策を推進するため、必要な財政上の措置を講ずるものとする」と理念だけでなく、財政措置をすることが盛り込まれた。また、条例案を修正していく中で、多くの議員との連帯感や信頼関係が生まれたことが、なんといっても一番の収穫だったと思う。

このようにしてできた修正案は、10月5日の健康福祉常任委員会に提出され審議されました。この委員会で採択が決まれば、通常は本会議でも可決されるのです。結果は、委員会全員の賛成で可決されました。そして、本会議に送られました。9月議会閉会日の本会議は10月11日にあり、この条例の採択のとき、自民党4人と民主党2人が議場を退場しましたが、あとの議員は全員賛成で、満場一致で可決したのです。その日、野沢氏は議会棟の前でNHKのインタビューを受けて語りました。

□□ 条例ができたからといって、すぐに差別がなくなるわけではない。立場も違い価値観も異なる人々が、お互いを理解して折り合いをつけていくのが、この条例の基本的なコンセプト。障害者のための条例ではあるが、けっして障害者だけではなく、成熟した社会に生きるすべての人々のためになるものだと思う。

 こうして、条例成立をめぐるドラマは幕を閉じました。