流れ作業

 おかしいのは朝からの動作が流れているうちはできているのに、止めたらできなくなる。
 トイレ、着替え、水を飲んで入れ歯を入れる、ご飯、入れ歯をはずして洗う、待つ、迎えが来る、靴をはく、車に乗る。
 ご飯のあと、流しに立って、入れ歯をはずす手前で人が来た。玄関で応対し、流しに戻る。「入れ歯、はずして」と言ってもわからない。手があさってのほうに行く。私の手を添えて、ばあちゃんの口に持っていくと、ばあちゃんはのけぞる。「口、開けて」と言うとぎゅっとつぼめる。何度も繰り返し、やっと入れ歯をはずし、洗うのに成功。
「入れ歯」も「口、開けて」も言葉として入らないのだろう。一連の動作で指示をしてできるのは、言葉として聞いて理解しているのではなく「体が覚えている」のだろう。止めるととたんにわからない。
 たとえば「おしっこ、して。言うて」と言うと「おしっこ」ではなく「おしこ」と短縮している。「靴、はいて。言うて」ももっと短く音がつまって発音している。聞いて理解して自分で音として再現する」はできない。
 でも「おばちゃん、見てきたらどないでっしゃろ?」とか言う「抽象的表現」ができる。自分から発信できる言語は抽象的である。具体的に「おなか、すいた」「おしっこに行きたい」は言えないのである。