なんか違う
原因がおぼろげながらわかったのは、さくら会の会員さんと携帯メールでやり取りしたから。
私「なんで『ばあちゃんが亡くなってさみしいね』って言うの?人間も宇宙の一部、死ぬのは当たり前」
答え「グリ−フケアに向き合わずに、他のことに懸命になっていると、自分のセルフケアに気づかないことがありますよ」
私「グリーフケアの意味がわからん。過去から未来に続く歴史の中に、死が悲しみしか思いつかない感覚の薄さに、情けなく感じる」
親二人を見送る私たち夫婦の勤めを果たせたのだもの。いいではないか。肩の荷を降ろしても。
つどい場さくらちゃんの会員だった人が「母が亡くなったの。でもまだ大泣きしてない。いつか大泣きしないと、と思うけど...どこですればいいの?」と言っていた。
そのとき「どうしてまるちゃんを思い出さないの?つどい場さくらちゃんがあるじゃないの?」と思っていた。「肝心のときに思い出してもらえない、つどい場さくらちゃんって何?」と思っていた。
でも、今の私には、まるちゃんは要らない。
介護を通じて知り合った人なんて、たかだか5年。
それ以前の友人、ずっとずっと前からの私を知っている人が必要なのだ。こういうときのために、私は時折り、手紙を書き「たたかうおばあちゃん」を送り、先輩たちと縁を切らずにいたかも知れない。そういう人がたくさんいて、そのおかげで多面的な受け止めかたができるのだなぁと思う。
「今はわからないよ。人にはわからないよ。自分にもわからない。でも、ずっとずっとやっていたら、10年もすれば、思い出になるって。懐かしいなぁって思える日が来るって。ずっとずっと続いてきた家の歴史を切ったりできない。家をたたむなんてできないって」
「手紙」という歌が紹介されていたころがある。
「『手紙』? アンジェラアキさんでしょう?NHK合唱コンクールの曲で、アキさんが中学校をまわると、中学生が歌いながら泣いている。聞いている私も泣いてしまう。あれに勝る『手紙』があるもんか?
なのに、画面に映るのは茶髪のおじさんで、歌詞は暗くて、曲は長くて...「歌」じゃないやん、こんなもの。思わずチャンネルチェンジ。あの歌がなんで嫌いなんやろう? 老いが暗いイメージで、物忘れが暗いイメージで、「介護」がつらいイメージで聞こえるのだ、あの歌は。
だから、私は「介護」なんてしてない!一緒に暮らしているばあちゃんが、80歳過ぎて、ぼけて、草引きながら元気に暮らしていて、天寿をまっとうしたのだから。