「被災地グループホームまるごと受け入れ作戦・その3」市民福祉情報オフィス・ハスカップから

 震災から3週間。
 福島第一原子力発電所事故は終息のきざしが全く見えず、被災地のみならず首都圏のわたしたちも、日本に暮らす人々みんなに不安な日々が続いている。
 わたしの事業所も自宅も計画停電からはずれ、ほぼ常と変わらない生活を続けていられるのが、何だか申し訳ない。
 さて、「被災地グループホームまるごと受け入れ作戦・その3」の報告。
 初めに話があったのは3階建てのビルだが翌日、1年ちょっと前に廃業したビジネス旅館が隣接自治体にあるという情報を得た。

さっそく見に行った。
 3階建てビルの広さは充分だ。でも、お風呂やトイレが小さすぎて、介助できない。
 何より階段が急な上に、狭い。実際に使うことになったら、下に降りてくるのがタイヘンになるかもしれない。
 次に元ビジネス旅館に向かう。一昔前に地方都市にあった「商人宿」といった雰囲気だ。
 1年以上閉まっていたわりにほこりも目立たない。
 1階部分には、調理場、大きめの風呂と家庭用風呂、広間があって、2階部分が個室。
 チョット古いけれど、布団もあればテレビもある。鍋釜あり。大きめの洗濯機は使えるかしら?
 階段は広めだが、足が弱い方もいるだろうから、階段昇降機を着けて。
 これは福祉用具のOさんに協力願おう。
 お詰め合わせ願わなくっちゃならないけれど、2ユニットのグループホームまるごと、当面何とかなりそうだ。
 少なくとも、避難所なんかよりはずっと良いだろう。

ということで、元ビジネス旅館でいくことに決めた。
 事務所に戻ると図面が送られてきた。
 福島県の事業者団体の方にFAXで送信する。
 介護報酬や指定変更などの問題があるから、埼玉県の福祉部にも連絡取った。
 あとは、お掃除と必要な生活用品の購入...。

それから明日で1週間。
 受け入れを希望していたグループホームは、自主避難勧告の範囲から数㎞はずれ、まだ決心がつかないという。
 当然のことだ。
 いま出たらいつ戻れるのかわからないのだから。
 事業者団体の方と、他の事業所にも声をかけて、と話し合う。
 しばらく時間がかかりそうだが、避難生活も長期戦になるだろう。
 いまはしっかり準備を整えて待とう。

「まるごと」受け入れたいと考えたのには理由がある。
 5年前の中越地震の際、新潟県内に暮らす92歳の方が、直接被災はしなかったが、震災の余波で入居予定だったグループホームが開設の目途がたたなくなり、こちらに暮らす娘さんに引き取られた。むろん新潟にいたころから認知症はあったが、リロケーション・ダメージによると思われる混乱が激しく、娘宅での介護はとてもできない。
 そんな経過があって、わがグループホームに入居されることになった。
入居当初は誰もが多かれ少なかれ混乱状態にはなる。
 この方は誰よりも激しかった。
 日中は窓から道に向かって「○村字▲のヤマダハナはここにおりま〜す」と叫び続け、夜は自室に入ることができずお国ことばでしゃべり続ける。
すぐ隣の村からお嫁にきて、ただの一度もその地域から出ることなく暮らしてきた人だ。
 なじんだ風景も、周囲の人も、食べものも、ふるさとことばも、みんなない。
 どれほど不安だっただろうか。
 ようやく少し落ち着いて、こたつのある自室に「あたってけ〜」と他の入居者を招き入れるようになった2ヶ月後、あっけなく亡くなった。
 先々回記したように、わが法人にも被災要介護者受け入れ可能人数のアンケートが国からきた。
 だが、ばらばらにあちらの特養ホーム、こちらのグループホームと振り分けられるより、可能なことなら「まるごと」引き受けたい。
 せめて馴染みのスタッフとみんなで一緒にきて欲しい。
 そう思ったのはこんな経験からだ。

そんなこんなで、介護保険のことなんてすっかり忘れていた。
 3月30日、ハスカップに「まるごと作戦」の現況報告をしていたら、「ところで、閣議決定された法案をみたんだけど、第2条から『要支援状態』の語句が消えてるの」と来た。
 ゆったりしゃべる人だから切迫感がないが、とんでもない話だ。
 昨年11月に出た社会保障審議会介護保険部会の『意見のまとめ』にあった「軽度者切り、要支援切り、生活援助切り」は、政権党である民主党がくつがえしたと受け止めていた。
 「軽度者切りはしない」、「生活援助をなくさない」の2点はキープされたと思っていた。
 そうでなくても、この事態のなかで、介護保険法改正や介護報酬改定は1年先延ばしにしたほうがよいと何人かで要望書を出そうと話していたところだ。
 おそるべし、官僚!(おりーぶ・おいる)2011/04/02