「よそに来ている」

 朝、デイサービスに行くのでよそ行きの服を着てから、ばあちゃんはトイレに行った。戸の隙間からばあちゃんが見えたが、ばあちゃんも私に気がついたらしい。ボタンを押して水を流した。いつもは「大」の時だけ流している。
 デイの連絡帳に書いた。「大発見!ふつう、おしっこのあとは、水を流さないし、手も洗わないのですが、今朝、私が見ていたら水を流しましたよ。手と顔を洗うのは、横についてやらせましたが...デイに行って『できる』のは、まだ『ひとが見ている』という気が残っているんですね」
 お返事は「そうですね。デイでのご本人は『よそに来ている』と我々と同様に感じて過ごされていると思いますよ。また、興奮したりするのは、次の行動が予測できないためではないかとも感じ、最近は理解していただけるように説明すると、少しは落ち着くこともあります。」
 う〜ん。読んでいると「連絡帳の書き方が、ずいぶん、変わったなぁ〜」と思える。ばあちゃんは以前は、ええかっこしいで、そとづらが良くて、その場に合わせてものが言えて、そのせいで「できるやんか、しっかりしてるやん」と思われていた。家では「できない」し、ちんぷんかんぷんなのに、わかってもらえない。「デイやステイのときに怒るのは、相手の話が聞こえないからであったり、自分がどうしたらよいかわからないからです」と言っても「聞こえていますよ」と言われ、読んだしりから忘れていっても「熱心に本を読んでいます」と書かれ...ばあちゃんの「ほんとうのすがた」は、なかなかわかってもらえなかったのだ。
 デイの午後のレクリエーションに移るときも、怒ったりしていたそうだ。目の前で、机を片付けたりし始めると「何をするのん?私、どうしたらええのん?なんにも、わからへん」と思って、あせったのだろう。「ここを広げて、ゲームをするよ」と言ってもらっても、イメージがわかない。だから「えー、なに?」と言って怒る。「外に連れ出して花と野菜に水をやる」とか「散歩」という別メニューのときもあった。
 それに比べると今日の「お返事」は、ばあちゃんのことを理解してもらえるようになった、と思う。
 もっと前は家で「お前はええよ、子供、産んで育てたし」と言われ「えー、ばあちゃんは?」と訊くと「わしは、男の子と女の子を産んだけど、二人とも死んでしもぅた」と私まで殺された。連絡帳を見ると「今日は七夕で、おりひめと彦星を折り紙で作りました」とあり、あ、これで私も殺された、と理由がわかった。連絡帳がないと、何もわからない。帰ってきてから、「えらい、機嫌が悪い、なんで?」と思って見ると「今日は『○○』という文字を使って文を作りました」とある。そりゃぁ怒るわ。「目の前の具体物しか理解できないばあちゃんに、抽象的な話をしないでやって」と思ったものだった。