「さびしくて寝ていられない」認知症の人のこころ

 小澤さんのお話だ。「物語としての痴呆ケア」にものっていた。
 夫が夜中にふと目覚めると、杏子さんがいない。家中の電灯をつけて、居間で丸まっている。「どうしたの?」と訊くと「さびしくて寝ていられない。あなたにはこのさびしさがわからないでしょう」と言う。「自分が壊れていく」その言いようのない不安感を「さびしい」という言い方であらわしている。
 「ボケたら、本人は何もわからないから楽。家族は困る」というのは、世間のとんでもない誤解である。「認知症の人の心の世界」も私達と地続きである。喜怒哀楽のすべてを持つ。中でも「寂しい」「喪失感」というか、「とりかえしがつかない」という気持ちを強く持っている。「どこかおかしい。自分が自分でなくなっていく。自分が壊れていくようだ」ということを心のなかでわかっているようだ。
 これはばあちゃんにもある。よく「どないしたら、よろしい?なんにもわかりません。教えておくなはれ」と言う。情けない顔をして言うから「わからない」ことに対する不安感は強いのだろう。
 また、杏子さんにもどる。杏子さんはお風呂に入るのをいやがる。そこで夫は、イギリスから戻ってきた娘のまり子さんにお風呂に入れてもらうようにたのむ。まり子さんはお風呂に湯をはり「お母さん、入りなさいよ。入らないと私、出て行っちゃうわよ。それでもいいの?」と言う。杏子さんはお風呂に入るが、夜、寝るときになって、夫に「あの、下にいるへんな女は誰?」と言う。まり子さんは杏子さんに縁を切られたのだ。
 小澤さんは言われる。「杏子さんは『私の娘なら、こんなひどいことは言わない。だからあの女は私の娘ではない』と思ったのだ。」これには絶句!だ。なるほど、これで私もばあちゃんに忘れられた。