「今ここで生きるためにできること」(高齢者をとりまく社会状況をふまえて)品田充儀先生

 人生には死、離婚、失恋、いじめなどいろいろな不幸があるが、自分で経験してみないとわからない不幸が二つある。一つは「自分の子供の死」もう一つは「いつ終わるとも知れない介護」である。「子供の死」の悲しみは本人にとっては一時的なものとは思えない。自分自身のidentityがゆらぐ。なぜ助けられなかったか、自分は何のために生きているか、この悲しみは一生ひきずるものらしい。それに比べて、介護はいつか終わる。悲しみをひきずることはない。
 私も介護を経験している。ボランティアの経験もある。妻の父はリュウマチで長く闘病していた。姪が交通事故死した。父は今、介護が必要になろうとしている。
 日本は高齢者の文化に目を向けず、年をとることにマイナスイメージがある。私はカナダに留学していたが、カナダでは90歳をすぎた夫妻がカヌーを引いて歩いていても、当然のこととして周りは手伝わない。テレビCMに高齢者が出る。年寄りの言うことは貴重だと受け取る文化がある。
 日本ではどうか?どこが違うか?日本には
1.「自立」の神話がある。「子供の世話になりたくない」と思っている。本当に自立している人などいない。「適度に依存している」のが「自立」であるとみるのが正しい。
2.「生産に寄与することが価値がある」と思われている。
3.「生活が大変になる」という悲劇がある。
 なぜ「老いる」ことをいやがるか?自分が介護を経験すると、年をとるのがいやになる。(そうそう、同感。私がばあちゃんの話をすると「そんなにならんように頑張ろぅな」と言う高齢者達。「私もばあちゃんみたいにぼけるかな?」と恐れる姪達)それは、高齢になると、自分のしたいことが制限されるし、周りに迷惑をかける。しかし、迷惑は若いときにもかけてきているし、また、一方的にかけるだけの人はいない。生きている限り、他人に与えている部分も多いものだ。年をとっても、心は常に成長し、豊かになるのだ。(自信を持とう!すももより)
 介護のポイント。「今日が充足していないとだめ」「介護は他人が介在しないと不幸になる」 前から多くの人とつながっておく。「頼りすぎず、寄り添いすぎず、このバランスが難しい」
 地域との連携について。もはや地域との連携がなくても生きていける社会になった。お隣で味噌醤油を借りなくてもお金があれば、コンビニでいつでも買える。友達がいなくてもインターネットで囲碁将棋ができる。出かけなくても宅配便で買い物ができる。逆に地域とかかわることがストレスになったりする。ところが、子供を巡る危険な事件が地域に起こると「子供見守り隊」ができて活動する。困る事態が発生すると、地域は連携できるのだ。
「年をとること」と「死ぬこと」について。医者は病気をなおすのが仕事で、死について考えたり語ることをしないできた。本当は「助死者」として、死をおそれながら、相手の心をしずめられる専門家が必要なのだ。
 介護をする心構え、心がけについて。パソコンで「かいごのひび」と入力して変換すると「悔悟の日々」と出て、う〜んとうなる。後悔しないように。介護は社会を知るチャンスだ。男は閉ざされた世界で生きていることがある。女性の方が付き合いが広いかも知れない。障がい者の人たちとつきあうボランティアにいくと「私とは違う立場で世の中を見ている人たちだ」と気づくことがある。「要介護」の人たちも同じ。要介護の人と一緒に生きがいを見出せる、喜びを見出せるといいかも知れない。一緒にいる空間作りをしてみよう。もしかすると「本音でしゃべるチャンス」かも知れない。それなら、できるだけ自分だけで介護しないで、夫や子供にチャンスをあげよう。もっとも、相手がチャンスと受け取るかどうか、定かではないが... 
 「自らをカウンセラーにする道」
+ほんの少しの志。ほんの少しの勇気。ほんの少しの情熱。ほんの少しの自信。
+常識にふりまわされない
+老いることを否定的にとらえない
+人と心をつなぐコーディネーター
+人とのつながりの中で自分をみつめる。人は変われるし、変わる。共存者となれる。
*意味のある偶然を楽しむ。自らの成長が一番のぜいたく。残りの生を実感する。
(感想。品田先生のお話も安永道生さんに近い「珠玉の数珠玉」だ。あちこちに散らばっていきそうで...by sumomo)