「それでも少年を罰しますか」神戸連続児童殺傷事件弁護団長・野口善國著 1998年 共同通信社

 図書館に行くと古い本がある。もう10年もたとうかというもの。でも、この事件のときはショックだった。自分の子どもと年齢が違わない少年がおこした事件だったからだ。
 そのころの私は「性犯罪を犯す者はその人の癖だから直らない。厳罰に処し、二度とこの世に出てこないで欲しい。でないと安心して生きていけない」と思っていた。今も大して変わらない。しかし、この夏、この少年の更生を書かれた本を読み、少年に対しては教育でなおせる可能性があると思えるようになった。それほど、この少年を受け止めた「医療少年院」だったかの担当教官は素晴らしかったのだ。
 そして先日、この本にめぐり合った。読みながら「弁護士さんは大変な職業だ」と思った。「はじめに」から引用する。
「A少年は、一口で言えば、『愛された感じを持てなかった』少年である。ほとんどの非行少年は、家庭の愛を十分に受けられなかった子どもである。少年非行は追いつめられた少年たちの悲痛な叫びである。もっと早くその叫びに気づき、適切な愛を少年たちに注いでいたとしたら、ほとんどの少年非行は未然にくい止められたと思う。(中略)
 A少年に代表される非行少年たちに厳罰でのぞんだからといって、彼らの非行をくい止めることはできない。厳罰は彼らの非行をより巧妙で陰湿なものにするだけだろう。愛が不足している者に愛を与えず苦痛を与えるという行為は、重病の患者に何ら治療をほどこさず、病は気からという精神主義を主張するのと同じぐらいまちがっている。
 厳罰を主張している人たちは、非行少年たちを『甘やかされている』、あるいは『矯正不能』の子どもと解しているようだが、少年たちと肌で接して少年の声を聞いている人はその中でどのくらいいるのだろうか。
 私は、自分自身が少年のころから非行少年といわれる子どもらと付き合ってきて、少年法によって救われた多くの子どもを見てきた。
 この少年法がいまや変質する危険をひしひしと感じ、これ以上の沈黙は許されないと思うに至った。A少年およびその他の非行少年といわれる子どもの声に耳を傾け、子どもを真に非行から救える方策をいっしょに考えていただければ幸いである」

はじめに
第1部 「透明な存在」からの訴え
第2部 非行は子どものSOS 
第3部 少年法「改正」緊急シミュレーション  望まれる少年非行の対策

 第3部 「心の教育」から「心で教育」へ
 「ところで『豊かな心』とはどういうことだろうか。
 人々は言う。『今の日本は物は豊富になったが、人々の心は貧しい』と。しかし豊かな心と一口にいっても、それを説明するとなるとなかなかやっかいである。『他人に思いやりがある』とか、『美しいものと感ずる心』とか、『困難にあってもがまんできる力』などなど、いろいろな説明ができるだろう。
 ここでは、私なりの解説をさせてもらいたい。
 読者の皆さんは、ちょっとボーッとしているときに、昔の楽しい思い出がよみがえることがないだろうか。小さいころに、誕生会やクリスマスをしてもらったこと、良いことをしたと先生にほめられたこと、友達と野山で楽しく遊んだこと、夢中になって遊んでいて遅くなり母親が心配したことなどなど、たくさんの思い出が、ちょうどたんすの引き出しにつめられたようになっていて、時々、その一つをあけて楽しくなることがないだろうか。
 こういうたくさんの引き出しを持っている子が『豊かな心』を持っているのだと思う。
 少年も含めて、非行少年の心の引き出しは空っぽか、見たくないものがつまっていて、二度とあけたくないのである。
 子どもにとって、楽しい、愛情に満ちた体験、思い出こそ、精神的な財産である。子どもの心の引き出しを宝物で満たしてやるのは大変である。学校だけではできないし、親だけでも十分ではない。しかし、何といっても、親から愛された体験こそが、子どもの心にとっては一番の宝なのだ。」 
 
 またちょっと心に残ったこと 
 第2部 管理主義教育
 「神戸市は古くから外国貿易でにぎわった港町であり、ハイカラで自由な雰囲気の都市と思われている。しかし、遅刻を防止しようとして生徒の命を奪う結果になった市内女子高生の校門圧死事件はあまりにも有名になってしまった。また、政令指定都市では一番最後まで(つい数年前まで)市立中学に丸刈りの強制をしていたのも神戸市である。
 神戸弁護士会は1989年に市内市立中学校の校則調査などを行い、神戸市立中における丸刈り『指導』の実態を明らかにし、1990年、丸刈り校則の廃止を求める意見書を作成した。このときに集められた校則を見ると不必要に詳細な私生活への干渉を定めたものが多かった。」
 弁護士さんはこういうこともしておられるのか。そのころ同じような年齢の子どもを持つ、神戸市に在住の友達に「丸刈りが悪いのではない。自分の自由意志でしたいのなら、それはかまわない。学校が強制するのがおかしいのだ」と言うと、怒ってしまい「丸刈りがいいのだ。かわいい」と感情的になってしまったことがある。なかなか住んでいるとおかしさはわからないものだ。教師が「校則のおかしさ」がわからないのも不思議はない。どうも私の「本の紹介」は一方的なので、読者の皆さんは興味が出たら自分で読んで確かめてくださいね。