在宅医療  我が家版

 「昔は皆、家で死んだ」について。私の祖父は喘息持ちで、寝たり起きたりだったそうだ。祖父の死は私が2才の時で、記憶にない。
 祖母は5人の子を産み、長男を数えの13才で亡くした。女の子二人は、0才、3才で亡くした。医者が遠い隣村まで無いので「これはあかん」と思い、背中に追って行く途中、息を引き取った。医者は背中の子と若い母親を心配して、うちまで送ってきてくれたそうだ。昔はおなかをこわして脱水になっただけで、幼い子はかんたんに死んだ。育ったのは次男と三男である。
 次男は結婚し、都会に住んだが、生まれた男の子を亡くす。この夫婦が「たたかうおばあちゃんと夫」つまり私の育ての父母だ。
 三男は中国戦地から帰り、結婚し、生まれた私を兄に託す。兄弟姉妹の3人をなくしたという、無医村の悲しさが身にしみていたので「自分の子を医者にしたい」と言っていた。長男が歯医者になり、孫が医者になり、悲願は実現した。
 話は前後するが、この祖母は9月1日に倒れ、脳卒中で死んだ。私は小学校の1年生で、始業式から帰って祖母の死を知った。嫁いびりのにくたらしい祖母も最期はあっけなかった。でも「楽」だったかも知れない。
「昔は家で死んだ」の実態がこれだ。
 家族が多いから「手がある」わけではない。
 次に時代は移り、昭和の終わりごろ、この次男、つまり私の育ての父が、肺気腫という病気になり、息を吐くのが苦しく、自宅にも酸素ボンベを置いて吸っていた。自室から出ない日々だった。風邪から肺炎になり入院し、心臓が止まった。マッサージしてもらって蘇生し、気管切開、人工呼吸器につながれ、50日近くを生きた。しゃべれず、食べられず、つらい日々であった。ばあちゃんは泊まりこんで毎日看病した。だから、ばあちゃんには「ぴんぴんころり」で死んでほしいもんだ。
 平成の時代になり、父の従兄弟は年をとっても好きな温泉に通っていたが「もう長くない」という噂で、見舞いに行くと、家でごろごろしていた。「もう固形物は食べられへん」と言いながら、びん入りの濃縮栄養剤のような物を飲んでいた。これで普通に死んだから「老衰、大往生」だ。これがいいなぁ。