「私も元々は この学校に勤めていたのです」

 そう言うと保健室の先生はびっくりされた。そう言えばご存知の先生と知らない先生がいるよね。
 実は30数年前、知的障害児の親や施設の職員が「派遣教師を下さい」という運動をした。今の時代の「派遣社員」のようなのではなく、中学校と小学校の正規の先生が、施設に住む生徒・児童を教えに行くのだ。施設内学級と言う。本来なら中学校や小学校の中にその障がい児のための教室を作り、生徒・児童が通ってくるものだ。今はそうなっている。
 だが、当時は親元を離れ施設に入るためには、今まで通っていた学校と縁を切っていた。学校という「教育」から施設に保護される「福祉」の担当になっていたのだ。「省」が違うわけだ。
 または小学校に入る前に「お宅のお子さんは障がいがあるので学校の勉強についていけません」と言われ、親は「就学を猶予してください」とか「免除してください」という手続きをして施設に入ってきた。「義務教育」というのは「児童・生徒は教育を受ける権利があり、親と行政は教育を受けさせる義務を負う」というのが本来だが、当時はそうではなかった。
 しかし、時代の流れ、教育を求める声は本人はともあれ、施設の職員や親から起こってきた。「派遣教師をください」そして中学で産休の先生の代理をしていた私と、小学校の経験のある先生が行くことになった。歓迎された。生徒も児童も親も。そして「僕らのときは学級がなかったから中学の卒業証書をもらえなかった。僕らの分も教えてやって」と言う年齢超過の若者たち。
 中学の生徒は7人だった。小さな教室に机と椅子、少ない備品。教育委員会の先生の学校訪問のときに「うちも見に来てください」と訴え、足りない備品を買ってもらった。
 国語も数学も理科も社会も教えた。体育もしたし、音楽は生徒がピアノを弾いた。美術は生徒のほうが上手で、細かい貼り絵など皆で作った。中学校の体育大会は見学したが、文化祭のおりには劇をして舞台に立った。その一つひとつを作文に書いて文集を作ったら、保母さんたちが「わぁ〜、先生が来るとこんなことできるんだ!」と喜んでくださった。生徒も励みになり、毎月作っているうち字も小さく丁寧に書けるようになった。
 私は若くて生意気、短気で向こう見ずであったが、情熱だけはあった。ノートを7段に区切り、毎日個人別に記録をとった。それを認めてくださった先生に「作文教育として発表したら」と勧められ、レポートを書くようになった。私の「たたかうおばあちゃん」の原点である。
 ここに1年半いて、その後普通の中学の英語の先生になり、またもう一度障がい児の担任になり、家庭の事情で退職した。
 そして次男が生まれ、小学校が新設されて長男と次男が通うことになり、巡り巡って次男がこの中学校に入学し、私は保護者としてまた門をくぐった。PTA委員・役員を務め、障がい児学級の先生のお手伝いをするようになる。「田植えが終わったから」と行っては調理実習をしたり、秋は「薩摩芋でポテトを作ろう」「苺の苗を植えよう」「干し柿を作ろう」と行き、3学期はお茶の先生と行ってお作法を教えてもらい「ひな祭りお茶会」をして先生方や保護者の方、小学校の特別支援学級の児童たちをもてなしてきた。10年も続けた頃「学校協力員になって」と言われたのだ。