「認知症の人と家族の会」と私

 京都市の本部と兵庫支部の存在をみつけても、私は「つどい」に足を運べなかった。空を飛べれば「ひとっ飛び」かもしれぬ神戸三宮の会場も、六甲山の裏側の私の家からは、電車とバスを乗り継ぐと1時間半かかる。
 ばあちゃんをショートステイに預けたとしても、それはたくさんの私用をこなすための時間なのだから、「兵庫県のつどい」はあまりに遠すぎた。
 近いとも言えぬ「西宮市家族の会」に入った。(農作業の無い季節に、やはり1時間半かけて通った)
 例会に出るといつもエキサイティング!
「そんなひどい施設があるの?!!」というような話が続出。聞いていると頭がクラクラした。
「山の裏側の我々」は田舎と思われ、施設の数が少ない。選べない。自分が選んだ施設を改善していくしかない。職員に感謝し、少しずつ、ばあちゃんを認めてもらった。
 「たたかえよ!」と言いたいし、言ってもみた。「『ブログ・たたかうおばあちゃん』のような武器を持たぬ人は、たたかえなかったのかも?
「大変だ〜」と言っても、「悲劇の主人公だ」と思っても、仕方がない。
「泣いても仕方がない。怒ったら、ばあちゃんがひねくれる。笑うしかないやん!」と私のまわりの人達はたくましい。「私のことはわかるんよ。主人が行ったら『お父ちゃん!』て、自分のだんなやと思うらしいで」と言いながら世話をしていた。お姑さんは自分が若いころの気分に戻っていて、目の前の若い?男性は夫!なのであった。あはは・・・と笑うのが、介護家族。
 ばあちゃんが特養に入所した時、私は「たたかうおばあちゃんが行く!」の出版が決まった。(自費出版
 入所して2週間後にばあちゃんが突然死んでしまった。大動脈瘤破裂だった。
 本ができてから、私は「認知症の人と家族の会」に入った。本を売るつもりだった。そううまくはいかなかった。
 本ができて喜んでくれたのは、紫陽花の会やら、介護職員の皆さんやら、親戚やら、ばあちゃんをよく知る人達だった。
 だから、今も紫陽花の会を続けているし、「つどい」に行かれなくても、認知症の人と家族の会にも入って勉強している。「意見発表者募集」などがあると「早速応募」「見事落選」にもなるが、機関誌に載せてもらうことはある。