「物語としての痴呆ケア」再び 「丸ごと受け入れる」

 この本に出てくる「桃源の郷」は広島県にある介護老人保健施設で、1994年に開所した。最初は小澤勲さんが施設長を勤められ、現在は内科医の大口潔さんだそうだ。
 「10年間のケアを振り返って」として「痴呆のお年寄りを丸ごと受け入れる雰囲気」と書いてある。小澤さんは
「私は『分かろうとする』ことにこだわってきました。痴呆だから分からない、と切り捨てるのではなく、いつも痴呆を病む人の世界に身を置いて考えようとしてきました。後になってようやく、ああそうだったのか、と納得することもありましたが、それでも、その時々には分からないことだっていっぱいあります。そのような時どうするかが、本当は痴呆ケアの神髄でしょう。
 『丸ごと受け入れる』というのは、そう、究極のやさしさです。私が『痴呆を生きるということ』に書いた『そもそも人は理解が届かなければ人と関係を結び、人を慈しむことができないわけではない。食べる、排泄する、衣服を替える、入浴する、そういった日常生活の援助を日々つづける。そこから’ただ、ともにある’という感覚が生まれる。ともに過ごしてきた時が理解を超える』という文章に共感していただいた方も多かったのです。
 ただ、どうすれば『丸ごと受け入れる』場をつくれるかは曰く言い難し、ですね」
 こうして、ばあちゃんもステイになじんでいったのだろう。初めは「帰る!」と言い、本当に「振り分け荷物」を担いで歩いて帰り、後ろからまだ若いスタッフが「すみません。『散歩しよう』と言うと、おうちまで帰って来てしまいました」ということもあった。もちろん、ばあちゃんが「ごんた」過ぎる。それでも、ばあちゃんも「もっと、気持ちをわかってよ」と口では表現できないので、怒ってしまう時もあったと思う。徐々になじんでいって、今は「もう、あんまり怒らないで過ごしました」と言って送ってもらうようになった。ありがたいことだと思う。「ただ、夕方になる前のいっときは、あきません。魔のひととき」あはは、それは家にいてもいっしょ。何度も家を出ては「帰ろ」と連れ戻すから。「もうすぐ、ご飯だ」という時刻になると、やっと落ち着く。それも一緒。
 さて「桃源の郷」の居心地の良い空間は「現実と空想のはざまにある模擬的世界」なのだそうだ。「痴呆ではあってもごく初期で、日常生活にはほとんど支障のない方が、ある日、ご家庭の事情で桃源の郷にショートステイされました。ですが、ほどなくして『私はこんなところにいられません。ここは怖いから帰りたい』とおっしゃったのです。」つまり「入所者にはここちよい生活も、施設の外から見れば『ふつうの生活』ではない」というのだ。私が、ばあちゃんとケアマネ君の際限ないやりとりを聞いていて、頭がくらくらするのはしかたがないのだ。私には「あわない」