「認知症 老いを受け入れる社会に」村瀬孝生(第2宅老所よりあい所長)朝日新聞5月26日「異見新言」

「脳内活性リハビリをご存じだろうか。老人福祉の仕事を始めて20年になるが、この言葉が声高に叫ばれるようになったのは最近のことである。
 認知症予防に効果があるといわれている。内容といえば単純な作業で、かけ算や引き算などの計算にいそしむのだ。高度な専門性を要するものでのないので、介護現場では気軽に取り組むこともできる。しかし、計算式を解くことで認知症が予防されるとは思わない。すでに認知症をかかえているといわれる高齢者でさえも、計算のできる人はたくさんいる。
 宅老所で暮らす96歳のトメさんもその一人だ。トメさんは自宅で留守番をしているさなかに土間へ落ち、病院へと運ばれた。腰椎の圧迫骨折の疑いで安静が求められた。
 排泄をオムツにできないトメさんは、痛みをこらえてトイレに行こうとした。その行為が危険であると病院は判断し、安全を守るために両手足を縛った。
 年相応の物忘れを抱えていたトメさんの様子は激変した。親族の顔がわからなくなる。昼夜の逆転が始まる。食事を受け付けない。典型的な認知症高齢者となったのだ。急激な環境変化、拘束による身体の抑制と社会からの隔離が脳に大きなダメージを与えた結果といえるだろう。
*予防重視の限界*
 つまり、認知症の多くはこういった社会環境が生み出している。高齢者の脳を活性化して認知症を予防する前に、認知症を生み出す社会環境をなくすことがよりたいせつなはずである。
 国は06年に介護保険の見直しをした。予防重視型システムへの転換を図ったのだ。当然、介護現場もそれに従う。健康ブームにわく世の中は国の方針に共感を示すかもしれない。誰しも寝たきりや認知症にはなりたくないのだから、予防することを否定する理由はない。予防、予防の大合唱だ。
 しかし、国のうたう予防はトメさんの抱えた問題を解決するためのものとはほど遠い。なぜなら、それは脳と身体機能の向上を図ることにしか視点が置かれていないからだ。
 そもそも老いとは、生体組織の絶えざる衰退と機能不全のプロセスであるといわれている。訓練やセラピーで一時的に機能が向上しても、そのプロセスからは逃れられない。さらにその先にある死は生物であるが故の宿命である。われわれの社会は、そのことが前提になっていないのではないか。
*若さの強迫観念*
 ハルさんは96歳でこの世を去った。10年間にわたり宅老所に通い、在宅生活を続けてきた。いわゆる加齢による生理的な『ぼけ』を抱えながら。そのハルさんの心臓が緩やかに止まりそうになった。職員は救急車を呼ぶ。駆けつけた救急隊員から、蘇生術を施さなかったことを指摘された。
 ハルさんの腰は直角に曲がり変形している。骨は卵の殻のようにもろい。もし、ハルさんに蘇生術をしたならば骨はばらばらに砕けただろう。
 私たちは葛藤する。ハルさんの死は克服すべきものだったのか。それとも受け入れ、寿ぐものだったのか。
 私たちの社会は『克服すべきこと』と『受け入れるべきこと』を見分ける常識を失ってしまったように思う。結果、老いを予防することはできないという周知の事実とは裏腹に、社会はその摂理にあらがう方向で進んでいるように思えてならない。
 アメリカのテレビ番組に紹介された老人たちを見て驚いた。101歳の女性が10メートル下のプールに飛び込む。79歳の女性がチアガール姿で登場し、その脚線美を披露する。
 高齢者であるという固定観念にとらわれずハツラツとすることは素晴らしいと思う半面、どこか無理がある。若々しく元気であらねばならぬという強迫観念が見え隠れしていると思うのは私だけだろうか。私自身は年相応によぼよぼ爺さんになりたいと思う。また『ボケてもいいよ』と言ってくれる社会であることを望んでいる。
 目を閉じて想像してみる。老いて介護が必要になったときのことを。横には同年代の男性。ともに若い職員から質問される九九を一生懸命になって解いている。隣のおじいさんはみな正解なのに、自分はさっぱり分からない。
 恥ずかしさと情けなさを味わったのち、開き直る。『そう長くもない余生をこんなことをして過すのか。こんなことをしないと、この社会に存在できないのか』と。これは笑えない話である。」

 村瀬孝生に賛成だ。この冊子の題も「ボケてもいいよ」に変更しよう。
「加齢による生理的なぼけ」って、ずっとずっと私が言い続けていたことだ。「ばあちゃん、80なんだから、ぼけても普通や」ってずっと言っているのに、学者は介護のプロは「認知症のほとんどはアルツハイマー病」と言うのだ。違うって。ぼけても草を引いてくらしていたらいいんだって。村瀬孝生、頑張れ!よし「たたかうおばあちゃん」を送ろう。