9月13日の「さくら会だより」の二人の感想とともに

 これが公式見解?なんでしょうね。
 旅に行く人はいろいろだから、いろいろ考え方が違う。もう一度、私が思ったことを書く。
 悦子さんとパパは去年も参加された。去年は歩いておられた。安永さんとつねあき君は去年もお風呂に入れてあげた。そして「ええ勉強させてもろたわ」とつねあき君が言っていた。今年は車椅子で来られて「1年たつと歩けなくなったんや」とつねあき君が悲しんでいた。
 去年はお風呂から上がったパパは、眠れなくて悦子さんとあちこち散歩してから、私たちが飲みながらおしゃべりしている所へやってきた。「わかっとるんか?」と大声で詰問された。それは「わたしはどうしていいか、わからない」という訴えであるが、どう説明していいか、わからない私たちはただひたすら平身低頭し、パパが落ち着かれるのを待った。というか、私がばあちゃんを扱う言い方で言うと、疲れてあきらめてくれるのを待った。パパはずいぶんたって「わかったかぁ〜」と言われ私たちは「はい」と言い「これでええんやな?」と言うパパに「はい」と言い、おひきとり願った。そのときは「感動した」という反応はなかったのだ。
 今年はバスの中であった。パパは何やら訴えている。安永さんが座る位置を変えたりいろいろやってあげて、最後は車椅子から座席に移って、やっと安定したわけだ。パパのせりふがふるっていた。それが「感動した」と言う場面になったわけだ。
 でも、私は訊きたい。去年も同じだったよ。去年は感動しなかったの?私にとっては「日常茶飯事」だよ。毎日この通りだよ。「認知症の人がどうしていいかわからなくて..大声を出したり」と言うのはばあちゃんそのものだよ。周りの共感・サポート?...ないよ。友達は「ばあちゃん、めっちゃ、おもろいなぁ」私は「ほんまや、あはは〜」の世界だよ、我が家は。これが「感動」なら、みんな「認知症というものを知らなさすぎる」んじゃない?
 認知症の人は他人に感動を与えるために生きているのではない。ばあちゃんはばあちゃんの人生を生きている。ばあちゃんに必要なのは「穏やかな日常生活」だから、旅には連れて行かない。私に必要なのは「ばあちゃんを忘れて好きなことをする時間」だから連れて行かない。
 旅を楽しめる人は行けばよい。でもパニックになる前に周りで気づいてあげなくちゃ。行く前の健康観察や車椅子チェックが足りないのではなかったか?大勢を連れて行くなら事前の準備が足りなかったのでは?それを気づいてほしいのだ。