「見送って・・・」

 今日は久しぶりの人に会えた。「来ないから心配してたんだよ」と言うと「うちもあなたと同じ。父をこの夏に見送ったのよ」と言う。それはそれはご愁傷さま、そしてお疲れ様。
 それにしても、このごろ「見送った」が多いなぁ。ご主人だったり、親だったり・・・。今日も昨年、お父さんを見送った男性介護者が来られていて、「その後、いかが?」に答えて「男性介護者の会の介護体験記募集に応募して、今年の記録集に載せてもらった。書くことによって、気持ちの整理もついて、次に進める気がする」と言われた。そうだろう。かえっていつまでも「グルーフケアのつどい」の案内状が来たりすると「もう要らない。前に進めない!」と言いたい。
 また「地元で介護者のつどい場を作ることにした」と言われた。それは素敵。まるちゃんも「つどい場を全国各地に作って!」と言うために全国を講演して歩いている。「どこの会場で?」と問う人には「地域包括支援センターの会議室で、第1回を明日にする」と言われる。共に中心になって進める仲間がいるのだろうか?それはまた次回に報告を聞いてみよう。私も一周忌もすんだら「サポーターになる」と言うのだから、ね。
 この夏に見送った人は「ほっとしました。今はのんびりする」と言う。亡くなったのはショートステイ先で、食事のときに食べた物をのどにつまらせたのだと言う。食事が一番危険とわかって介助しているのだろうか?その人は自分で食べられる人だから、油断したのではないか?
 まあ、でも、その人は「夏の暑さで弱っていたので、いつ、何があってもおかしくない状態であった。あとで思えばそうだった」と言う。「施設の人の目があるところで、さいごまで自分で食べていたのだから、これでいいのだ」とも言う。自宅で「のどにつまった」と言って救急車を呼ぶのも大変なので、よかったと思えばいいかも知れない。
 それから「予後」の話になる。彼女が言う。「世帯主が亡くなると、手続きだけでも大変だ。何度も役所に足を運ばなければならない。うちは私たち子供がいたから何とかなったが、これが、高齢の夫婦だけであったら、困っただろう。世間で亡くなっても手続きせずに幽霊になって、と言うが、手続きを手伝う社会的なシステムも必要だと思う。」
 去年見送った男性は「死んだとたんに、それまで毎日のように電話やら、寄越していた介護の業者が、死んだとたん、ぱたっと連絡してこなくなり、それはびっくりした。初めてわかった。すべての縁が切れる。」と言う。
 司会者のサポーターが「前回、スモモさんが『介護中はケアマネもいて、介護職がいて、社会とつながっているが、死ぬと縁がきれて、それこそ孤独になる。それは覚えておいたほうがよい』と言ってらっしゃいましたね」と補充してくれる。
 そうなのよ。それは生きているうちから覚悟も準備もしておくほうが良い。古くからの友達もつながっておいたほうが良い。「介護者の会」はそこまで手がまわらない。死なれてから参加すると、違和感もあるのだ。
 だれかが「死んでからも、ケアマネや介護職が『どうしていますか?』と訪ねてほしい」と言う。それは業務に入っていない。つまりそれでは介護報酬はもらえない。今、受けている担当者のケアだけで手いっぱいであり、そんな時間は無いだろう。善意のボランティアで訪問するぐらいの人なら、こんなときにまな板にのったりしない。それはやはり彼女の言うように「法律で定めて業務に入れる」しかない。しかし!そんな「死後の手続き」なんてまた新しい業務を覚えてもらうよりも、他のサポートシステムは無いものか?市役所で考えてもらいたい。