東日本大震災:民生委員、大活躍 2日に1度は高齢者をチェック−−岩手・大船渡

 ◇「いつもどうもー」「元気で休めよー」
 「いつもどうもー。二郎です」。岩手県大船渡市赤崎町の山口地区で民生委員を務める山口二郎さん(64)が、ドアを開ける元気な声が響いた。ブルーのつなぎに帽子姿。地元では親しみを込めて「二郎さん」と呼ばれている。訪れたのは1人暮らしの菅原トシ子さん(85)の自宅だ。【銭場裕司】
 山口地区は電気、水道が復旧していない。足が不自由な菅原さんは「避難所に行っても歩けないから」と高台にある自宅で暮らしている。「津波はここまでは来ない。余震で家がつぶれたら、それはその時だよ」と話した。
 1933年の昭和三陸地震と60年のチリ地震津波を体験した菅原さん。2回とも自宅を流され、チリ地震では屋根に上がって九死に一生を得た。「津波のことはおばあちゃんが一番分かっている」と二郎さんは言う。
 菅原さんは今回の津波を見ていない。入浴施設に連れていってもらうため、地震後初めて外出し、変わり果てた街の姿を知った。地区の住宅はおよそ半分が津波をかぶり、中学校などが全壊。死者や行方不明者も出た。
 「今回の津波が一番ひどい。昔は家が流されなかった所まで津波が来ている」。おしゃべり好きの菅原さんの顔が悲しみでゆがんだ。
 住民はおよそ380人、70歳以上が100人を超える。
 二郎さんは週1度は顔をみるなど、高齢者が元気か確認してきた。地震後はほかの住民の助けも借りて2日に1度はチェックしている。
 軽トラックを走らせて自ら救援物資を届けることもある。カステラや缶コーヒーを受け取った1人暮らしの金野巴さん(81)は「いつも心をかけてもらって助かってます」と何度も頭を下げた。
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 地元でセメント原石を輸送する「岩手開発鉄道」で、保線や車掌などを務めた二郎さん。約40年前から山口地区に住み、民生委員になったのは定年退職した4年前だ。推薦した前任者の佐々木謙さん(74)は「人柄が良くてまじめ。この人以外にいない」と語る。
 今回の震災で、民生委員に加えて特別な役割を担った。自宅にかけられた看板には「津波対策実施本部」と書かれている。公民館が津波にのみ込まれたため、住民の自主防災組織で作る本部として自宅を提供した。倉庫は救援物資で山積みになり、壁は住民向けの情報掲示板に変わった。二郎さんは「家が残ったんだから、お役に立てれば」と笑う。
 近くの高台にある漁村センターでは、お年寄りらが避難生活を送る。
 二郎さんはなかなか帰れない人に代わり、水をかぶった家を片付けてきた。この日も「元気で休めよー」と励ますと、ほっとしたような笑顔が返ってきた。
 漁村センターから周囲を見下ろすとがれきの山が広がる。船や丸太が散らばり、生活の基盤だったたくさんの住宅が破壊された。
 「あそこに駐在さんがあって、そこには郵便局があって……。悲惨ですね」と二郎さん。センターのそばには、過去の津波で失った人命の数を彫った碑が立っていた。「地震があったら津波の用心」。将来、被害者を出さないように石に刻まれた教訓が、記者には悲しく見えた。
 二郎さんは地区の将来が気にかかる。「被災した人には暮らしてきた里を離れたくない気持ちと、また津波が来たら怖い気持ちがある」と解説する。高台には新たに宅地造成するスペースはない。住民が地元を離れる可能性もある。
 「困った人を助けられるから」と照れながら民生委員のやりがいを説明した二郎さんはこう言う。「今は落ち込んでも仕方ない。一生懸命自分の役目を果たして、頼りにしてくれる人の役に立ちたい」
   毎日新聞 3月31日