さっそく長尾さんのお話

 まるおさんみたいにおしゃべりがうまくなりたい。笑いのとれる講演をしたい。「スライドなしでやって」と言われたのは初めてで、はなしがあっちいったり、こっちいったりすると思います。
 私は伊丹生まれで、今は西宮在住。東京の大学に行き、大阪へ戻ってきました。震災はまるで野戦病院でした。その後尼崎で開業し、13年になります。勤務医は11年でした。 
 講演はおそろしい題「あなたはどこで死にたいですか」など、どんな人が来てくれるか...よくぞ来てくださった...
 医師ですから人の死と接することは多いです。研修医として阪大病院にいたときは、末期癌の患者さんを2年で何百人と見ました。肝硬変で血を吐く人もみました。亡くなる人も多く、考える余裕もありません。
 芦屋病院に移り、末期癌の人は病院にいて幸せなのかな、と思うようになりました。「家に帰りたい」と言う人、かえしてあげたいと自分は思うが、上司にきくと「だめ」「往診もだめ、規則だから」
 震災で、小さい子がなくなるのを生まれて初めて経験しました。不眠不休でかけめぐり、開業の決意をします。
 開業しても最初は患者さんが来ないので暇でした。おおやさんが毎日注射に来てくれて「先生、そのうち来ますよ」と言ってくれる。0だったり、5人だったり...毎日注射に来る人が、ときどき入院したり、家に帰り、腹水がたまってとれなくなると、毎日点滴に行く。昔で言う「往診」今は「在宅診療」と言います。13年前のこの人が初めての在宅で迎える死でした。
 二人目は大晦日でした。
 いろんな患者さんがいます。末期癌でも旅行します。命はあと1ヶ月なのにヨーロッパ一周に行く。国際電話がかかります。「今、バルト海の船の上で血を吐いた」!なんとか帰り、ホスピスに入られ、お見舞いに行くと、元気で、犬が病室から出てきます。犬を入れるのも自由。宴会場では酒を飲んでもいいし、門限もない。それでもその「ホスピスから出たい」ということで「ばんざーい、脱出した」と言われました。最期は「6時に起きたら冷たくなってました」ということで、これは本人も奥さんも望んでいたことです。私は往診のつもりでしたから「死亡診断書」の用紙を持っていませんでした。近くの病院に行って「一通分けてください」と言うと「あなた、何者ですか?」ときかれました。
 自分の家で死にたいということは、美容師さんなら、店の中にベッドを置き、看板やさんなら作業場にベッドを置き、クリーニングやさんはカーテンの後ろで、ということです。家族が多いとみる人も多い。「家族に見守られて」というイメージがあるでしょうが、そうとも限りません。一人ぐらしの方もいます。「電気が消えてるが、テレビがついてる。阪神戦を見ている。1週間は大丈夫だろう」と思っていたら、次の朝、なくなっていたこともあります。 
 「病院がいい」「家がいい」できるだけ好きなように生きてもらいたい。
 ところが病院は足りません。今は「望んで在宅死」でも、そのうち「望まない在宅死」がでてきます。このとき家族は当事者としてまきこまれる。しかも「被害者」です。だから、まるおさんが「いる」のです。
 介護保険でまかなえない。では誰が?民生委員さんや、近所の人、ただの向かいの者、の協力。見守り。
 なかまと「自分はどこで死にたいの?」と話してみます。「ぼけて施設に入って死にたい」「病院に入って、皆を困らせ『死にたくないー』とわめく」「僕は野たれ死にしたい。消えるように死にたい」死のイメージは皆、違います。皆さんもそうでしょう?10年前なら、こんな話はできませんでした。
 まだまだ興味深い話はあったのですが、書くのは控えます。