「私と教職・・・学校協力員として」大学の同窓会の会報に応募したら掲載された

            
 昭和四十六年に卒業して、初めて勤めたのは西宮市立中学校の産休の先生の裏付けでした。任期を終えて、その秋に開設された「施設内学級の担任」となり、正規の教員になりました。ここは知的障害児のための施設で、当時の制度では、入所した生徒は「就学猶予または免除」になり、学校には通えませんでした。親と施設職員達が「障害児も学校に行きたい。先生を下さい」という運動をして、「施設内学級」を勝ちとったのです。私にとって初めての障害児教育は手探りでした。運動会の作文を書いて文集を作ると、職員さんが喜んでくれ、「ことばの教育」を通じて人格の形成を目指しました。残念ながら英語を教えるゆとりがありませんでした。
 普通の学校に転勤し、英語の教師になりました。五年勤めて、また障害児学級の担任になりました。そこでは画用紙に絵と英語を書いて「MYSELF」という表現集を作りました。初めの「I」の自画像は丸い顔に一本線の眉、丸い目に三角の鼻と口だけだった生徒が、他の生徒の絵を見たりするうちに、「MY FATHER」になると、リアルな似顔絵らしくなり、本人は「英語を習う」と思っていても、実は物を見る目を養っているのだと気づきました。「MY ROOM」に至るや、ベッドや机の下には畳の目まで透視して描き、「この子の頭の中はこんな風になっているのか」と思い知りました。六十四歳になった今は、「こんなに見え過ぎたらしんどかっただろうな」と思います。
 その後、私は父親の病気のために退職しました。そしてわが子の入学と共に、PTAや子供会の世話をしていました。偶然にも自分が勤めた中学校に子供が入学し、特別支援学級の先生と出会いました。年に数回、ボランティアとして、調理実習などのお手伝いを始めました。三学期には、お茶の先生と一緒に生徒にお点前を教えて、雛祭りには、教室に畳を敷き、お茶会をして先生方や保護者や生徒の出身小学校の特別支援学級の児童や先生をもてなします。後輩たちには「中学生になったらすごい!」と思ってもらい、先生方には「立派になった」姿を見てもらいます。私達、教える側にとっては、一年に一度、二回か三回のお点前ですが、一年生ではできなかった生徒が、二年生になるとできるようになり、三年生になると下級生を指導するようになります。日頃の教育の積み重ねが見えます。この指導はもう十七年も続いています。
 その間、「特別支援教育」という制度になり、「発達障害」「学習障害」のある生徒に特別な支援がなされるようになりました。自分が住む西宮市のことしか知りませんが、「特別教育支援員」という先生がおられて、普通学級に在籍して学んでいる生徒の中の、特別な配慮のいる生徒を援助するものです。
また西宮市には「学校協力員」という制度ができて、私も名札をもらい、特別支援学級の補助を務めています。週に一回出勤し、三時間の授業の補助をします。「生活」という科目で、学級の畑に野菜を植えて世話をしたり、収穫して料理して食べます。これは教科の勉強と連動して、生徒の日々の暮らしを豊かにしたり、体と頭の訓練になります。将来、特別支援学校の高等部などに進学し、職場実習なども経て、就職したり、作業所に通ったりする時の為の基礎訓練でもあります。国語や数学、技術系の教科では、担任以外の協力員がいればマンツーマンで細かく指導できる場合もあります。その学校の先生以外の大人と触れ合うことも生活を豊かにします。こういう制度が広がってほしいし、もっとたくさんの先生が「学校協力員」として補助に来てほしいと思います。ボランティアではなく、制度としてあることに意味があると思います。
私のような中途退職の先生でもできるし、定年退職後の先生もしておられます。
 今年の春「先生ですか?」という電話がかかってきました。聞けば最初に産休裏付けで勤めた時の教え子でした。「今、仕事を辞めて家にいます。学校を出てから、何をしても続かなくて、人間関係にも悩みました。数年前に『発達障害』の診断を受けました。ほっとしました。病気だったんだ。それまでは『自分が頑張らないからだ』と自分を責めていました」という話でした。
さいころに診断できて、必要な援助が受けられたら、学校でも社会に出てもうまくやっていけたかも知れません。就職すれば納税者として生きていける。適切な援助が受けられないまま成人して、障害者として年金をもらって生きる。この二つを比べれば、社会としてはどちらが有益かわかるでしょう。本人のためでもある。社会の為でもある。大勢の方々に特別支援教育を知ってもらって、携わってもらいたいと思うこの頃です。