「たたかうおばあちゃん」の話をして

 「最近は認知症の話題をテレビ、新聞で見ない日がないぐらいですね」と始める。
NHK朝イチ」をメモした紙を見せる。カレンダー用紙の端切れの細長い用紙が2枚、足りなくなって、印刷用紙の包み紙を4つに折って書いた3ページ分。
「こうしてメモしながら書くと覚えます。NHKも最近はうまく作ってあります。」
「こちらは2月14日の朝日新聞土曜版・be。フロントランナー。石飛幸三医師の『平穏死』です。ばあちゃんの話を聞いていただきながら、どうやってこの平穏死にたどりつくか、考えてみたいと思います」

 最初にばあちゃんがまだ百姓のころの写真を見てもらった。田んぼで米の収穫作業。稲刈りをする夫の横で米の袋を持とうとしている。よく働いたころだ。
 次に「ばあちゃん紙芝居」をした。
 「ばあちゃん、これ、誰?」「わたしです」(ばあちゃんのA3拡大写真)
 「ばあちゃん、これは?」「知りません!」(娘の私の拡大写真)で、どっと笑いがおきる。
 うまくいきそう。これなら、このまま行こう、と最初の計画をやめ、ばあちゃんの筋を追うことに決める。
 「ショートステイの送迎職員さんが『知りませんか?ここにいてはりますよ』と言うんです」
 「娘を忘れても生きていける。ばあちゃんは衣食住を忘れるから生きていけないんです。夏に毛糸の服を3枚も着たり、ご飯を食べてもまた食べに来たり・・・。それが認知症という病気なんです」
 ばあちゃんの生まれた所、幼いころの活発さ、13歳で奉公に行ったこと、結婚したころは神戸にいたことなどをはなす。
 80歳になって「おかしい」と気づいたのは、検査入院時に毎日、薬を飲ませに来てくれた弟。次に畑で「おばちゃん、苗の植える間隔が狭いで」と気づいた姪っ子。
 最初は「ななくさデイサービス」に相談に行った話。「介護保険が始まってからまた来て下さい。でも、今日は話ができてほっとしたでしょう?」と言われた話。
 介護保険が始まって、市役所に申込み、認定調査員さんが来た話。ノートが役立った話。「目が離せないの?」「いいえ、そんなことはありません」「あぁ、気が離せないのね」
 気が離せない、なんて初めて聞いた。やっとわかってくれる人がいたという安堵感。
 デイサービスに行けるようになって初回は「老人会や」とご機嫌。2回目は「お通夜や!」と怒って帰ってきた話。近所の友達がヘルパーをしていて「我慢!幼稚園と同じ!慣れるまで3か月、家族が我慢」と助けてくれた話。
 畑の隣に福祉センターができたこと、それはばあちゃんにとって運が良いことだった。がその運は、ばあちゃんがその施設と仲良くやってきた、自分でつかんだ運かも知れない。
 私はその施設のおかげもあるし、友達に障害者がいたこともあり、障害児教育に縁があって、施設内学級の先生になった。今ある権利は先の人が闘いとってくれたもの、という気持ちがあった。
 自分も!というわけで「たたかうおばあちゃん」を書いて発信していった。まちなかと違い、私の近所には使える施設が少ない。選択肢が無い。今、使っている施設を良くする以外に無い。
 「あんたのおばあちゃん、めっちゃ、おもろい」と言っていた人が「その冊子、ちょうだい。姉が母を介護するからあげる」「友達にあげる」・・・。
「あげたら、どう言うた?」「『この人は自慢している。夫がいる、子供がいる、教え子がいる』」「そうか。でも、夫は1日にしてならず。やろう?」「うん、そうそう。お互いの忍耐のたまもの」
 そうなんです。人脈は1日にしてならず。
 2004年が転機であった。勉強を始めた。三好春樹さんの講演会で「目からウロコ」と言う介護職員たち。「年取ったら世話になるのは当たりまえ。年取ったらぼけるのは当たり前」と思っている我々家族との差。本を買って勉強をする。
 「教師が介護者になると最悪!と書いてあるんです」と私が言うと、会場が爆笑。「叱咤激励しますからね。子供は伸びていくことを知っているから、ね。ばあちゃんは教えても覚えない。それまでは厚紙にメモを書き、束にして見せていたんです」
 ショートステイの話。「『いまどき、1年に1回の海外旅行は当たり前。ショートステイを取って海外旅行に行きなさい』と書いてあるんです。それを読んで、涙が出ました。それまで、ショートは取っても、仕事をするため、と思い、旅行なんて思ってもいない。後ろめたい気持ちがあったんです。」
 「北海道車いすの旅」も2004年。車椅子で飛行機に乗る話、旭川空港でステップでおりる怖さ。「旭山動物園に行った」と言うと、またどっと沸く。「はやる前ですよ。私たちが行ったあと、ブームになったんです。円筒水槽のアザラシ。動物園が山にあるので、坂道ですが、見知らぬ人がちゃんと手伝ってくれるんです。行かないとわからない。行くと手伝ってくれる」
「旅」のサポーター理学療法士さんの話。「たたかうおばあちゃんは何と闘うの?」考えたことなかった。ばあちゃんはいつも「草、引かな、草、絶えへん」
畝と谷の草は引くのが正しい。畑の周りの土手の草は引いたらあかん。雨が降ると土が流れる。名も知らぬ野の草が地面を守っている。世の中に要らないものはない。要らない命は無い。でも、ばあちゃんのいつもの姿は「たたかう!」の言葉にふさわしい。私の恩師が「たたかうおばあちゃん」を読んで「あなたはたたかうおばあちゃんを守るために戦っているのですね」と書いて下さった。恩師はありがたいです。

 2007年に「ベターケア」に載った。
 2009年、5月の新型インフルエンザ発生?で介護施設の一斉休業。
 「農繁期や。ばあちゃんをどうしてくれる?殺すしかない!」とメールをしまくり、ケアマネをしている友達がヘルパーさんを連れてきてくれた。休業が終わり、ステイに預け、夜は「たたかうおばあちゃん特別号」を書く。
 市長さんに送る。県知事さんに送る。ホームページは市長も県知事も総理大臣も同じ大きさの画面。国会議員に送る。市役所から返事が来る。国会議員から返事が来る。政権交代
 「特養に入所」を頼みに行く。2000年から2009年まで、デイサービスに来た人がいるか?いないでしょう?
 入所して2週間、突然の死。大動脈瘤破裂。2週間前まで畑に行って、その日の夕食も食べて、大往生。弟が来て「今までよう世話してくれた。おおきに」とねぎらってくれたこと。綺麗な遺体、立派な骨。(骨を言い忘れた)お葬式で私は泣きまくって、母の介護は終わった。
 
 前の壁の時計を見ながら、話を切り詰めたり、「あー、時間超過した!」。予定の3時になってから、作って行ったプリントの穴埋め確認に入る。
 ばあちゃんが最期までほぼ在宅できたのはなぜか?
  体が丈夫であった。
  子供の頃の活発さ。
  最初が肝心。サービスを適切に使ったので進むのを遅らせた。
 「認知症の本人は何もわからないから幸せは本当か?」それは嘘。わかっていて「あたまがいんでもぅた」と不安になっていた。頭が往ぬ、西方浄土に。
 介護は知識と人脈。
 目と耳と歯を治療する。
 五感を使う。目で見て、鼻で嗅いで、触ってみて、音を聞きながら、味わう。
 さて、何でしょう?お料理です。
 だから、婦人会の人はお料理して下さい。
 今の人脈を大切にして下さい。必ずみんなが助けてくれます。
 認知症を予防するのもいいが、それでもなってしまうことはある。本人を責めない。認知症になっても安心して暮らせる社会を作ることが大切。
 認知症サポーターになろう。
「サポーター養成講座に行ったら、オレンジリングをもらえます。皆さん、お持ちでしょうか?私は2回も行って、2つ持っていたのに、昨日探したらみつかりません。これはキラキラリングです。ミュージカルを見に行ったときに主役さんが投げてくれたのをキャッチしました。運動神経の無い私がキャッチしたので、これで私の運は使い果たしたようです」
 それから、今は医療制度も変わり「入院は3か月」の時代。
 在宅で療養するには「かかりつけ医」を持つ。月に2度の訪問診療を受けて、自宅で突然亡くなっても救急車を呼ばない。警察が検死に来るようなことは避ける。訪問看護やヘルパーさんを使えば、たとえ一人暮らしでも孤独死にはならない。
 こういうことも知ってもらいたかったのです。
 これで朝日新聞、石飛幸三さんの「平穏死」のたどりつきました。
 あ〜、終わった!