「働く意味 取り戻せ!」上田紀行(東京工業大准教授)朝日新聞5月25日夕刊

消費の自由さと全能感、その快楽はまやかしである 
 いま、「働くこと」がピンチに陥っている。
 それは二つのレベルでピンチだ。ワーキング・プアのように、いい仕事に就けない、働いても食えないという「格差」の問題において。そして労働環境が過酷になる中で、何のために「働く」のか分からないという「意味」の問題において。
 それはかつての、働いて豊かになるとぴう「幸せな労働」が外面からも内面からも崩壊していることを示している。しかし何故私たちの「働くこと」はかくも悲惨な状況に陥っているのだろうか。
 結論から言えば、それは「消費者としての私」が「労働者としての私」に勝利したからだ。消費者が労働者に勝利したのではない。私の中の「消費者」が私の中の「労働者」を抑圧しているのが今日の社会なのだ。
 労働者としての私と消費者としての私、そのバランスが崩れている。貧しく可処分所得も少なかった時代は、私たちの中の消費者は目立たなかった。しかし経済成長の中で所得は増大し、私たちは消費の快楽に酔いしれる。私の中の消費者が目覚め、そのエゴが強大になっていく。
 現代の消費は自由だ。かつての消費は地域に拘束されていた。モノをひとつ買うにも地域内の人の目があり、人間関係があった。しかしスーパーや大型店の出現は私たちに匿名性の自由を与え、インターネット時代になれば消費に社会性はまったく必要なくなる。私は世界中からいちばん安値の売り手を探せばいい。社会は遠近感をなくし、フラットになる。カネさえあれいいのだ。
 しかし労働はそうはいかない。良き労働を生み出すためには様々な社会的要素を勘案しなければならない。あなたは何歳なのか。子どもはまだ小さいのか。もう手を離れているのか。両親の世話は誰がするのか。あなたはどんな仕事に生きがいを感じるのか。どんな仲間と仕事をしたいのか。職場での人間関係をいかに気づいていくのか。労働を良きものとするためには、多くの「知恵」が必要なのだ。そして忍耐力やコミュニケーション能力といった、社会の中での「人間的」な能力が要求されるのである。
 しかしその面倒くささに私たちは耐えられない。消費者としての私は「お客様は神さまだ」とチヤホヤされ持ち上げられてきた。カネを持ちそれを消費するときの私たちの感じる自由さと全能感!それは麻薬中毒にも似た快楽であり、だから傷つけられると私たちは途端に激怒し、クレーマーに展化する。
 その自由さと全能感に比べて、労働とは何と手間がかかり、面倒くさく、忍耐を要求するものなのだろう。であれば労働もフラットなものにしてしまえばいい。労働とは単にカネを儲けるための手段だと考えよう。そして皆を競争させ、カネを生み出す人間には報酬を与え、そうでない人間は切り捨てればいい。
 労働という深みのある世界を、カネと競争という薄っぺらな世界へと一面化する。それは市場原理主義新自由主義の潮流だと語られることが多いが、それを支えているのは、労働とは社会的にも人間的にも深い豊かさとかけがえのなさを持った世界なのだということを認識できない、消費社会の感性である。
 そもそも労働とはカネのためのものではなかった。伝統社会では労働と遊びは分けられておらず、人々は労働の中に人生の楽しみや友人との交流を見いだしていた。また、労働とは競争ではない。戦後の日本社会においても社内での競争は「遊び」であった。出世組は役職という「栄誉」を得るが、給料の差はそんなにつかない。誰もが最低限の保障を得ながら、出世した人には名誉を与える。それはきわめてエレガントな社会的な知恵だった。そんな「知恵」ある社会に比べて、労働はカネであり競争であり、勝ち組には膨大な報酬を与え、負け組は放り出せという社会は、情けないほど貧困なものに見える。
 今こそ「働く」ことの回復が必要だ。そのためには「お客様は神さまだ」という偽りの自由と全能感が、この社会があなたを欺くためのまやかしだとまず気づくことだ。
 24時間欲しいものが何でも手に入り、カネを持つ人間の意向は最大限尊重され、労働環境を削ってでもとにかく安く提供しろといった、消費者にとって天国の社会は、労働者のあなたにとっては必ずや地獄となる。大金持ちの「勝ち組」ならばいい。しかし私たちの大部分は消費者である以上に、ひとりひとりが守るべきもののある、かけがえのない労働者なのだ。
 万国の労働者よ団結せよ!と叫んだ時代があった。いま私は、あなたの中の労働者よ目覚めよ!労働の深い意味を取り戻せ!と叫びたい。この時代を救うために。